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2006年10月23日Mon [22:23] 徒然の話題  

リバタリアニズム

安倍政権発足後初の国政選挙となった衆院統一補選が22日投開票され、神奈川16区で自民党の亀井善太郎氏(35)、大阪9区で同党の原田憲治氏(58)の両新人が当選しました。今回は北朝鮮の核実験による追い風も吹いて完勝した自民党ですが、選挙の出口調査では無党派層の民主党支持が多かったと報道も成されています。これはリバタリアニズム(政治哲学)に基ずく、昨今の流れにノーを言いたい無党派閥の一部が流れたものだと思われます。

リバタリアニズム
リバタリアニズム(英:libertarianism)とは、個人は、他人の同様の自由を侵すか又は他人への害とならない限りにおいて、自分とその財産を自由に出来るべきであると提唱する政治哲学である。リバタリアンは「すべての人間の交流は自発的かつ合意に基づいているべきである」ということを基本認識としている。リバタリアンは、個人あるいは財産に対する強制的な力の行使あるいは脅迫がこの原則の違反であるとしている。リバタリアンの中には、全ての強制的な力の創設を不道徳であるとみなす者もいる。一方、その他の者は、最大の個人の自由を保障するために必要最小限の力(最低量の課税や法規など)の行使に従事する必要最小限の政府の存在を支持している。

経済的自由を重視する点でリベラルとは対立し、個人的自由も重視する点で保守とも異なる。

また、リバタリアニズムでは、私的財産権(private property rights)もしくは私有財産制を個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考える。私的財産権には、自分の身体は自分が所有していることを自明とする自己所有権原理(principle of self-ownership)を置く。(→ジョン・ロック)私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。

また税とその配分という政府機能を否定すれば、無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム/anarcho capitalism)や国防・裁判・治安維持にその機能を限定した上で政府の役割を肯定する最小国家論者(Minarchist)といった分類は程度の問題といえる。

基本的にリバタリアニズムが追求する自由とは、他からの制約や束縛がないことという意味での消極的自由を指している。

この点において、制定法上の自由権のような政府が与える積極的自由と、リバタリアニズムにおける消極的な自由とは対照的で相反する概念である。

法的には、ハイエクに見られるように、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想(法の支配/rule of law)を追求する。

経済的には、フリードマンに見られるように、市場におきる諸問題は政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義(レッセフェール/laissez-faire)を唱える。


今から7年前の第145回通常国会(99年)で矢継ぎ早に成立した盗聴法、改正住基法、周辺事態法、国旗国歌法、憲法審査会設置法に続き、今年は改正入管法の成立。こちらは継続審議となっていますが共謀罪なども取り沙汰される昨今です。だから今回の選挙ではリバタリアンが民主党に票を投じて、政局に対する一定の重しとした理由も分からなくも無いですね。

間違ってもワンちゃん相手に無邪気に戯れる【おっさん=民主党小沢代表のCM】に親しみを持った投票では無くて、ニューライトや保守的左翼とも一線を画する集団が居ると言う事です。実に厄介な、この集団が最も場の変動に弱いと思われます。その場の状況で、左右どちらにも振れますから。そして時代は過剰情報の偏食喰いの中、理不尽な反日や侵犯が繰り返されています。それが日本の核保有を求める声が2割近くに達する原動力であり、あまり影響なさげな場所では与党の足を引っ張る。

勝たせすぎると共謀罪を初めとする個人的な締め付けが強くなりそうで、しかし与党に負けさすと政府の規制や介入が減らずに増えそうで、そんな微妙なバランス感覚でしょうか。

やれやれ。。



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2006年10月19日Thu [11:53] 徒然の話題  

青山繁晴の核兵器不要論に

青山氏は「命ある限り、日本の核武装には反対」論者であり、私自身、その考え方に賛同できる部分はあります。青山氏自身、日本の核保有議論は否定していません。寧ろ、その議論が出来る環境こそが、反日政策を採り続ける中華国に対する、一種の抑止力に成り得ると考えるのでしょう。これは「日本の非核3原則をめぐる発言はどうしても看過できない」(リンク切れ)とする、民主党の鳩山幹事長と明確な一線を画しています。鳩山氏は「このような発想では、日本が核の拡散の方向に道を開いてしまうことになりかねない。日本は唯一の被爆国であり、だからこそ核の廃絶に向けて世界をリードしていくべきだ」と続けますが、日本の自由な言論を圧迫してまで得られる益はありません。話し合いとは、中には相手の嫌がる内容も織り交ぜる事で成立します。自分勝手な論理で吼えまくる相手(北朝鮮)を前にして、耳障りの良い話ばかりでは聴きいれて貰えないのは、卑近な例に置き換える必要も無いでしょう。

次に昨今の「核には核で対抗」論者の多くが陥っている盲点ですが、これは何時だったか石原都知事も指摘しているように、中華国と日米の政府では人命の軽重が違うという問題が有ります。同じ規模の核兵器を使用しても、そこで自国の核兵器価値が圧倒的に下がってしまうのです。だから石原都知事はアメリカが中国に負けると言い、私は北朝鮮ごときの相手に核は不要とするのです。

ただ青山氏も、今回は日本の核武装論に絞った話に終始しています。私の知る限り、北朝鮮も象徴的な大量破壊兵器である核の開発こそ見せていますが、残りの2種類に関しては見せていない。貧者の3大兵器である毒ガスや、細菌兵器を見せていないのです。普通の軍事増強志向国なら当然開発するべきの、その種の兵器が、噂すら流れてこない状態とでも言いますか。此方も当然ながら、アメリカの想定範囲にある不確定要素として、朝鮮半島外交戦略に組み込まれている筈ですが。

次に青山氏は「アメリカの犯した戦争犯罪」(民間人を巻き込んだ)と同じ轍を踏む愚として、核兵器の所有に反対しています。氏は「投下は間違いだった。落とさなくても日本は降伏した。民間人殺害は戦争犯罪だ」と続けますが、此方は当のアメリカ歴史学会でも議論が分かれる問題であり、アメリカの原爆投下と旧ソ連の参戦が、どちらが日本の降伏を齎したかが争われています。どちらも戦争末期にある日本に与えたインパクトは強烈ですが、私としては「やや原爆投下優位」としています。僅かだろうが、日本が降伏する時期を早めたのが原爆だったと。あの戦争末期の様な混乱期、特に後に続く東西冷戦を考慮に入れた場合は、この僅かばかりの時間差が、今の日本を形作っていると。

だからと言っても、無差別兵器である核を容認する気は無いのです。残りの2種も。

しかし現実は不思議な事ばかりで、核保有論(世論の約2割)は有るものの、敵基地攻撃能力が真剣に議論されていない。日本の核保有論者達も何処で使う兵器なのか、それが解っているのでしょうか。現在日本の専守防衛は基本的に国内で守る事を想定し、領海外、まして他国相手は想定していません。これでは日本の開発した核兵器を再び、日本国内で炸裂させるような話です。それとも日本の核兵器開発で、一足飛びな有耶無耶で他国攻撃能力を持たそうとする魂胆か。。

時代は隔世、今や日本の専守防衛が他国攻撃力を必要とするのも分かります。何だかんだ言っても日本国憲法が制定された時点で、こんなにも大量破壊兵器が蔓延する状況が想定されていなかった。現代戦では相手に致命的な一撃を与えてから、通常兵器の介入になります。そして防衛は最初の致命的な攻撃を防ぐ能力を要求され、次に肉弾戦(近代兵器で)の防衛に移る訳です。其処に至る戦争の過程で無差別破壊兵器である核と、限定的に扱える兵器のどちらが良いか。考えるまでも無いでしょう。相手国に不穏な動きを察知しても、そこで無差別な殺戮をすれば、それこそ戦争犯罪に成りかねないのです。これが航空機やミサイルによる限定攻撃なら、不穏な動きをした相手が悪いと国民も納得します。

核開発より9条改正で敵基地攻撃能力を持つ事の方が難しいとの意見も有りますが、だとすると自国内で使う核を開発しろに成ります。それが抑止力ですか、何の意味も無いでしょう。

結論として日本に核開発議論は本来、時期尚早になります。しかし「唯一の被爆国だから」とのセンチメンタリズムのみで拒絶するのは、今回の様な、自ら日本の危機を招きこそすれ、世界の核拡散を防ぐ力も無いのです。ここは日本も敵基地攻撃能力を持つ事で「話し合いに圧力も加えながら」も、どの様な話題も国内で活発な議論が出来る土壌を整える事が急務となります。そんな日本も普通の民主主義の国になる事が、本当は中朝に対する最も大きな抑止力になると私は考えます。その先でもまだ恫喝が止まない場合にのみ、事実上の核開発議論をすれば良いと。

この核保有も国内の話し合いが続けられ、それが必要な時には十分な資料を持って国民に示された方が良いでしょう?。周囲国のゴタゴタに振り回された挙句の、急造核保有議論は真っ平御免です。小泉元総理の失策の1つに、あの急造皇室典範改正問題が有った事をお忘れなく。

と、私は思うのですよ。



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2006年09月01日Fri [22:57] 徒然の話題  

ヒトは弱い

人間が「信じたいことを見出してしまう」効果については、大きく分けて2通りの説明があります。1つ目は「誰でも自分が優れている(まともである)という証拠を欲しがっていると言う事です。はじめから【そういう証拠】だけを探して、それに反する証拠に出会っても無視するか、すぐに忘れてしまうのです。これが人の持つ、「信じたいことを見出してしまう」ことの、動機論的な説明となるのです。

これとは別に、純粋に認知要因による説明も可能です。たとえば周囲は本人の喜ぶようなことしか言わないので、はじめから得られた情報(証拠)のサンプルが偏っている、という説明です。

これらからすれば人が陥りやすい「自分は平均以上」という錯誤も、総意誤認効果も、ともにうまく説明できます。どちらにせよ、人は簡単に「信じたいことを見出してしまう」のですから。

対話や討論の場面では、失敗を(また成功もある程度)眼の前にいる他人に帰しがちな傾向があるということが知られています。これなども「失敗は認めたくない」という動機論ふうの解釈もさることながら、単に手がかりが目に見えているかいないかという差だという認知論ふうの解釈が成り立つのです。というのも対話場面では、自分の表情や行動は自分では直接見えません。しかし他人の言動は直接見えて目立っているからです。

つまりここで認知論ふうといっているのは、人は常に入手できる手がかり、特に目につきやすい手がかりに原因を帰してしまいがちだという考え方からのことです。

結局は、ヒトは信じたいこと(だけ)を確認したがるのです。

しかしこれらは常識として皆知っているようで、実は皆その影響を過小評価しています。多くの人々は自分が平均以上に知能が高く、平均以上に公平であり、平均以下の偏見しか持たないと思っているのですから。「他人とうまくやってゆく能力」についても、なんとほぼ全員が平均以上と考えいるのが実情です。このバイアスが知性や教育レベルとは関係ない証拠に、大学教授の9割以上が、自分は同僚の教授たちよりも優れていると信じてたりするのです。

周囲の大多数の人は自分と同じ好みを持ち、自分と同じ判断をするはずだと思いこんでしまう。

これをもって、私は「人間とは弱い生き物だ」というのです。自分とは異質の存在を受け入れる事の出来ない、小さな群れ社会に生きる生き物特有の。

さてさて、これで現代社会の急激な視野(情報)の拡大に付いて行けるのでしょうか?。

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2006年07月04日Tue [19:44] 徒然の話題  

寄り道の効用

小さい頃、私は家にランドセルを投げ込むと、何時も日暮れまで出歩いていた。家が商売をしていて両親が働いていたという理由も有るが、何よりも外で遊ぶのが好きだったのだ。

そこで私は、いろいろな所に顔を出していた。

近くの鉄工所の中を覗いては、不思議な形の鉛片を探してた。牛乳工場の構内では、珍しい牛乳のキャップ探しもした。農業用溜め池からの水路ではザリガニ釣りをし、ついには何らツナギを施していない、丸太や板を組み合わせただけのイカダで乗り出した事も有る。

あれは今年のように、とても寒い冬の事だった。釘の1本、ロープの1本すら無いイカダなど長時間浮いていられよう筈もなく、周囲1キロほどの溜め池の真ん中当たりでバラバラに分解してしまった。当然、私と悪友連は冷たく、臭い池の中に放り出されたっけ。

歓声を上げながら、丸太にしがみついて岸に戻り、風よけに日当たりの良い土手の内側で服を乾かす間、私は悪友達と「次は何処行こう」と懲りもせずに、次の行き先(遊び場所)を話し込んでいた。そう、トーマスとハックのように。良い、時代だったと言うべきか。

思えば、あの頃の私は寄り道ばかりだった。

フランスの、ジャン・ギットンという哲学者は言う。
「学校とは一点から一点への最『長』距離を教えるところである」

人生とは道草・寄り道(最長距離)のほうが、その時も、後で思い出したときも楽しいのではないのだろうか。と、言う人もいる。

考えることの大切さ

勉強や仕事で、最『短』距離を歩む事を余儀なくされる日本人。何時しか、最短距離こそが最高だと勘違いしていないだろうか。浪費して無駄だったなあと感じられる時間こそが、本当は最も大切な時間だったのではなかろうか。

最短距離を歩く事に慣れきった人は、実は線路から外れた事に対応できない。知識こそ有るのではあるが、それを組み合わせるのが不得手のようにも思える。

最『長』距離を知らずして、どうして最短の最短である事が分かろうか。

これが、日本の『ゆとり教育』で忘れられていた事ではないだろうか。


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2006年06月15日Thu [18:24] 徒然の話題  

皇室典範改正問題

皇室典範改正問題、その間違った長子優先主義。
シリーズ化の予定、、、なるかなあ?

皇室典範とは、皇位の継承順位など皇室の制度・構成等について定められた日本の法律です。この皇室典範には大日本帝国憲法時代のもの(明治22年裁定(勅定))と、日本国憲法下のもの(昭和22年)とがあり、前者は後者と区別するため旧皇室典範と呼ばれる事が多い皇室典範です。この旧典範は憲法と同格で法律ではなく、この点が現行の典範との大きな違いの一つになります。

さて秋篠宮妃紀子様ご懐妊の報が流れてから影の薄くなった皇室典範改正論議ですが、此方はやはり新しい皇室典範で話を進めなくては成りませんね。

日本国憲法体制下の皇室典範は法律として制定され、他の法律と同様に制定および改正は国会がおこない、皇室の制度そのものに国民が国会を通じて関与する事となります。

この日本国憲法第2条で皇位は世襲のものである旨規定していますが、その方法については皇室典範の定めるところによると規定して、例えば皇位継承者の性別については触れらていないのです。

次に皇室典範の規定では男性の皇族にしか皇位継承を認めていませんが、秋篠宮文仁親王以来男性の皇族の誕生がないため、敬宮愛子内親王誕生後、これでは駄目だと皇室典範の改正が議論となり、その議論のなかに女性にも皇位の継承を認めるべきだとの意見や、旧宮家を皇籍復帰させるべきだとの意見もみられるのです。

しかし日本国憲法で定められた皇位の世襲(せしゅう)とは、親の手にしている特定の地位や肩書き、職業等を、その子や係累が引き継ぎ、それによって社会的な権力や権限を得ることです。係累(身を束縛するものの意)とは、 年をとった両親や妻子や まだ小さい兄弟など、面倒を見なければならない家族の事です。

この日本国憲法第2条で「皇位は世襲のものである」旨規定している以上、これは現皇室典範の規定内で解決不能な時にだけ、皇室典範の改正論議が出てくるのが筋なのです。

結局は秋篠宮文仁親王以来男性皇族の誕生が無いからこその問題ですが、その為に古くから宮家が存在するのです。では再度、「世襲」とは何でしょう。

歌舞伎や能、狂言などの伝統芸能は勿論の事、自営業者や政治家までもが世襲色強いのが現状ですね。しかしこの天皇家に限っては、養子縁組みが認められませんか。また、婿養子は認められないのですか。

世襲色強い政治家が学者を巻き込んで、よそ様の世襲には口出しをする。

旧宮家まで含めると男系男子も居られると聞きますし、敬宮様と比較的年齢が近い旧宮家の男系男子まで居られるとの事。事は皇室典範の改正を、天皇家本来の形に戻すだけで解決する話なのです。まあ、伝統の様式ですね。

次に敬宮愛子内親王様が天皇になられると、色々と困った問題が発生します。日本が女性優位の男系社会である、などは置いておいても。

女系天皇を認めるとするなら、当然これまでの「内親王殿下達は結婚後には皇籍離脱」という皇室典範の取り決めも変更する必要が有ります。つまり内親王殿下が宮家を継ぐ、または創設することが可能になるのです。ところが、これも可笑しくなる。

天皇家には秋篠宮家だけではなく、他の宮家にも内親王殿下がいらっしゃいます。戦後に民間に嫁がれて皇籍離脱された方も、これでは呼び戻して宮家を創設することが可能となります。こうなると皇室の数は急激に広がり、皇位継承者も大幅に増えるのです。これら新たな皇位継承者を無視して敬宮様にだけに皇位継承を認めるとすれば、これは形を変えた男尊女卑ならぬ【差別】です。他の宮様には皇位継承を認められず(実質的に、そうなる)に、敬宮様だけに認める妥当な説明が必要です。

現天皇家には宮様が3人おられ、もうすぐ4人となります。そこで敬宮様を天皇とする根拠が必要なのです。再度「世襲」の話になりますが、歌舞伎や能などの伝統芸能ですら厳密な長子相続では無いのです。これは男女の別だけではなく、才能の差にもよるのです。例え歌舞伎役者の家に生まれた男子でも、才能のない人には継げないのが常識です。

これも無視して敬宮様を後継に持って来るのは、あまりに天皇職の過酷さを見下した判断です。また【男女平等を唱える平等の概念】からは、同時に長子や次子間の平等も考慮する必要があります。何故なら、個人間に不平等を持ち込まないが基本の精神ですから。その万人が【平等】の観点から言うと敬宮様は次々代天皇候補4人の中から、次の天皇に選ばれる必要が有るのです。

天皇が女性でも良いという判断であれば現天皇には3人の候補がおられた訳ですし、これでは兄弟姉妹間の順番さえ問題となります。仮に次の天皇家の宮様が女→男→男とお生まれになっても、その長子宮様を選ぶ理由が必要なのです。つまりこれでは当然ながら、1番目のお子様を天皇とする理由が必要なのです。

皇室典範改正問題が男女平等に踊り惑わされた、長子優先思想では笑い話に成ります。本来の宮家活用方法の方が、よほどスッキリとした選別方法です。そこに男女平等問題を絡めた所で、「伝統」と門前払いされるのを嫌がっただけとも思えますね。


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