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2006年03月29日Wed [12:08] 日本の話題  

日本の決め事は誰のため?

日本での【決め事】が、多くは人間性善説じみた決め事だというのは誇らしくもあり、でも【どうしようもない】人達に抜け道を与えているのは腹立たしい

そう感じている人も、この世間には大勢いるのでは無いだろうか。

大きく世間を騒がした事件の弁護にしても、それを被告の訴訟能力云々で裁判そのものを停止させようなどとの弁護側戦略は、まるで世間的にも通用しない話だと思う。

考えようによっては、松本被告にしても【逮捕時には】訴訟能力が有ったのだ。

これでは日本の決め事が想定していた数人単位ならいざ知らず、数百、数千人以上の被害者が生じる事件の首謀者は【全員もれなく】訴訟能力無しでお咎めなしとなる。思い出して欲しい、薬害エイズ事件での主導的立場だった教授も放免された事を。

これでは数百、数千人を殺した者が英雄(どの世界かは問わぬが)だと言うのに等しく感じられるのは私だけだろうか。まるで被害者側や、普通の国民が持っている感覚が無視されている。

そんな悪用が平然となされている、昨今の裁判です。

3月29日付・編集手帳 (2006年3月29日1時34分 読売新聞)
「こうしてこうすりゃこうなるものと知りつつこうしてこうなった」

江戸期の人、都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の作という

◆愚かの誹(そし)りを承知で人はときに、誰の目にも誤りと映る道を選ぶ。色恋ならばそれもよかろう。法律の専門家である弁護人が裁判のルールを無視した末に「こうなった」のでは、傍聴席も「ああ、やっぱりね」で済ませられない

◆坂本弁護士一家殺害など一連のオウム事件で死刑判決を受けた松本智津夫被告の控訴審で東京高裁は、公判を開かぬまま裁判を打ち切った。刑事訴訟法に定める控訴趣意書を弁護側が、期限を半年過ぎても提出しなかったためである

◆弁護側は被告には訴訟能力がないと主張しているが、きちんと法令に従って書面を提出し、法廷で訴訟能力の有無を争うこともできたはずである。ルール破りの奇策が招く結末は分かっていただろう

◆背筋を凍らせて見入った地下鉄サリンの空撮映像。あるいは、坂本龍彦ちゃん(当時1歳)のあどけない遺影…。多くの人がさまざまな記憶を脳裏に浮かべながら、事件の闇を照らす光を求めて裁判の行方を見つめてきたに違いない

◆被害者の遺族と国民が何ひとつ聞くことのできぬまま、知ることのできぬまま、裁判は終わろうとしている。遅延を狙うにしても稚拙に過ぎる戦術で「こうなった」、その罪は重い。

加害者が何一つ話そうとしない場合は、遺族や国民も何一つ聞くことは出来ません。

知りたい、聞きたい。

そんな遺族や被害者の抱く気持ちは、私だって多少は理解しています。当事者では有りませんから、そこに切実感が無いだけ。

しかしそんな一般国民の思いが、今や加害者側を利するだけの現行制度と成り果てているのならば、本当に浮かばれないのは誰でしょう。




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日本をよく見てみると 扇歌が、当時上方を中心に流行っていた「よしこの節」を元に「名古屋節」の合の手「どどいつどどいつ」(もしくは「どどいつどいどい」)を取入れたという説が有力である。名古屋節は、名古屋の宿場で生まれた神戸節(ごうどぶし)が関東に流れたものである。音律数も同じで

2007/04/23 09:31:31[日本をよく見てみると]  

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