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2006年01月27日Fri [13:18] 雑学の話題  

日本とは違う儒教感

中華諸国の儒教(朱子学)と日本の儒教は違い、これなども日本の先人達が独自のアレンジをして採りこんだ1つの業績になるのでしょう。しかしあまりに日本人の感覚にあうアレンジをしてしまった結果、えてして中華国の儒教も同じだと錯覚している場合は有りませんか。

朱子学の根本にある思想は「理気二元論」です。

理とは宇宙に内在する秩序とか法則性の事で、気は宇宙に充満するガス状の物質であり、物を形作る基体の事になります。朱子学ではこの理気二つの働きによって、世界の一切の現象を統一的に捉えられるとします。つまり、そういう理念主義な訳です。

きたい 【基体】
〔(ラテン) subjectum, substratum; (ギリシヤ) hypokeimenon〕あるものについて性質や状態が語られる際に、そうした性質や状態が帰属するそのもの。

だから朱子学において「理=法」は「気=物」が持っている属性とは考えられておらず、それぞれ別個のものだが、「理=法」あるトコロには必ず「気=物」があり、「気=物」があるトコロには必ず「理=法」があるとするのです。つまり、どちらも単独ではないと言う事です。

そうした理解のうえで、「理=法」が「気=物」に秩序を与えていると考えるのです。つまり理こそが気に作用する超越的な実体と見なす訳ですね。

この理気二元論を倫理の問題にあてはめて、気は「現実の君臣関係や親子関係、社会関係」であり、理は「仁・義・礼・智・信」という5つの「性」だと言うのです。この「性」とは「天命によって万物に備わる善なる性質」です。

この「善なる性質」により、社会は「自主性・創造性・意識性」に基づいた客観的な法則で発展を遂げていくとされるのです。つまらん事を、長々と書いちゃったかな。

つまり、こういう事です。

人間社会には一定の相互関係を成り立たせる法則があり、では無くて、法則そのものが人間の自主性を通じて社会に働きかける。これが、朱子学の考え方なのです。

しかし日本では江戸時代において儒学者だった伊藤仁斎が、人間社会の法則は自然界の法則と同列に考えるべきではなく、人間固有のものとして考えるべきと主張しています。理は何ら実体あるものでは無くて、「気一元論」を唱えたのです。

つまり最初に具体的・現実的な人間関係(社会)が有り、「性」はそれに伴っているのであって、けして「先だって」あるものでは無いという考え方です。

理念よりも実際性を、優先する考え方ですね。

倫理・道徳も大事だが、それは普遍的に誰にもあてはめて説くべきでは無い。実際の生活のなかで尊重され生きている、人倫=人間関係が優先されているのです。

仁斎は「道徳を説くには個人的な生活条件を尊重する事が大事で、すべて一律的に説くことは間違い」としました。この仁斎の道徳論を、当時の人々は人情説と呼びました。

この仁斎流の道徳論が、そのまま現代日本人の奥底に眠っているのです。

戦後日本の現実を直視できない中華国国民と、それに対して儒教国家のくせしてと反発する日本人の間にある溝、それもこれも中華理念を優先する側と、現実を問題にする側の対立に過ぎないと考えるのは変でしょうか?。

そして私には、今や古典派儒教世界の方がグローバル化の波を受けて苦悶しているようにも見えます。人間は理念だけで生きて行けるモノでは無く、中華国も今や現実を直視する必要に駆られていると。

韓国では国産映画の上映比率に茶々が入り、中国はネット関連の企業に強制してまで言論統制しようと必死です。しかし、それは内外からも批判される現状です。

韓国、国産映画上映日数を半減へ

中国、メディア統制強化、「氷点週刊」発行停止

中共脱党人数が700万人超、北京は首位、中国の激変が近いか

変固な理念主義が生き残るには、それは閉じられた社会でしか無いと。そう思いますが?。


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